2011/07/11

1991年7月12日

20年前の今日、ペルーでとても悲しい事件がありました。

首都リマから北西に約60kmに位置するワラルという場所に、JICAが技術協力を行っていた「野菜生産技術センター」があります。このセンターは、日本政府の無償資金協力によって建設された施設で、地域によって気候が大幅に異なるけれど、育てやすい野菜の種を開発し、ペルーの農業の発展につなげようという思いも込められていたようです。

しかし、だいぶ下火になってきたとは言え、当時はテロリストの活動がまだまだ活発だった時期でした。1991年の7月12日、そこに赴任されていたJICAの方3名が、テロ組織であるセンデロ・ルミノソによる射殺事件の犠牲となり、尊い命を奪われました。


この悲しい事件を機に、専門家はもちろん、当時数十名もいた青年海外協力隊員も、ペルーから引き上げることになりました。きっと、断腸の思いでの撤退だったと思います。

そして、治安が落ち着き始めたかと思われた5年後の96年、今度は同じくテロ組織による日本大使公邸の占拠事件がおこり、協力隊派遣は保留のままとなったのです。

事件から10数年もの時が経ち、治安が落ち着き始め、ペルーと日本の友好関係が深まりをみせた頃、協力隊派遣再会を期待する声がようやく高まってきたとのこと。当時の関係者によると、「そうでなければ亡くなった三人が浮かばれない」との声もあったようです。



私が長期の協力隊員として派遣されたのが、2008年3月。
実に17年ぶりの派遣でした。

ペルーに着任した初日、Mirafloresにあった当時のJICAペルー事務所を訪れた際、セキュリティの厳しさに驚いたことは今でも忘れません。鉄格子、監視カメラ、いくつものドア。そして、事務所の中に掲げられた、亡くなられた3名の遺影。

そのお写真を見る度に、彼らのプロジェクトに対する思い、活躍を期待しつつも、元気に帰ってきて欲しいと帰国を待たれていたご家族の思い、そして、自分がペルーで活動させて貰える有難さを感じては、胸が苦しくなりました。

更に、ペルーJICA事務所や、日本政府に迷惑をかけるような、問題を起こすような行動は絶対にとってはいけないと、どこかで思うようにもなりました。(だから、やんちゃな事をしないで無事に帰ってこられたのかも知れません…。)



一方で、自分の活動先であるHogar Emmanuel。

私が赴任した時は、家庭環境に問題があるために家族と一緒に暮らせないこども達が生活するというケースが一般的になってはいたけど、設立当初の目的は、今とは少し違いました。

加藤神父がHogarを創られたのは、1982年。当時のペルーの経済状況は深刻で、今よりも貧困に苦しむ人は多かった時期です。そして、テロ活動も盛んだった事もあり、お金に困った人たちの中には、自分のこどもを置いて、テロ組織に加わる事も多かったとか。

つまり、そういった活動に参加したが為に両親に先立たれたこども達を保護して、温かい食事とベッド、そして教育を与えようというのが、加藤神父のHogar設立の思いだったのです。


社会問題の犠牲になった、JICAの方々。そして、Hogarのこども達。
もう二度とこんな悲しい事件が起こりませんようにと、願って止みません。



2008年、私の赴任時は、協力隊員は私1人、そして、シニアボランティアの方が2名でした。成田空港を一緒に出発した同期隊員達はみんな大所帯なのに、NYで乗り換える時、すごく心細くなったことを今でも思い出します(笑)。

でも今は、ペルーで活動中の協力隊員はやっと10名を超え、シニアの方も、4名ほどいらっしゃるとか。本当に嬉しい限り。協力隊の指名は、成果をあげること、貢献すること、色々あるとは思うけれど、やっぱり一番大切なのは、「繋いでいくこと」だと思います。


これからもずっとずっと、ペルーへの青年海外協力隊派遣が続いていくことを願います。

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